FC2ブログ

旅の人生88ヶ所めぐり

忙しくても、自分の行きたいところへとにかく行こう。行きたかったところを、一つずつツブして(かなえて)いくのだ。ある地へ行ったことが、その後の人生に影響することも多い。旅に憧れるロマンチストは、そうして自分だけの旅の人生遍路を辿り、完成させていくことで、自分の人生を極大まで充実(即ち満願成就)させたいと願う。ここでは、私のささやかな八十八旅を、自由にクロスさせながら拾い上げていきます。

雪のメロディー

今日はこのあと雪が降るとの予報、
空を眺めたらどんよりと重い灰色が一面に広がっている。
1週間分の洗濯物を部屋干ししながら、休日の静かな朝、
ひとり、冬のメロディー「ケルティック・クリスマス」の(、これは確か)Ⅰ(1995年版)を聴いている。
どの曲もよいが、始まった…ナイトノイズ「Snow on High Ground」、
雪の情景を描写したこれほどの名曲を、僕は知らない。

もうひとつ、大好きな雪のメロディーがある。
ボリビアで1970年代にすばらしい活動をしたルパイの
「Paisaje de Nieve(雪の風景、雪景色)」だ。
アンデスでは知られた伝承曲に
Nevando esta(雪が降っている)という曲もある。
しんしんと、雪が高地に降り積もる情景が目に浮かぶような名曲だ。
遠い異国の(という表現は、近年しなくなったなあ…)メロディーでありながら、
いずれもわれわれ日本人の季節感(情趣を愛する徒然草的な)と驚くほど重なって
しみじみと感動を、しばし味わえる。
ルパイ(ロス・ルパイ、初期はキンテート・ルパイ)というフォルクローレグループ、
日本ではほとんど誰も知らないだろうがヨーロッパでは結構多くのCDが出ていた。
ぼくの周りのアンデス音楽ファンの間ではとても人気のあった曲だ。

ナイトノイズのもルパイのも、ごくごく短い作品だが、軽作業のつかの間、ふと引き込まれ、
1曲終わると心が洗われている、という感じだ。
いや、ルパイのほうは洗われるという以上に、雪の冷たさをものともしない熱さを心に灯してくれる。

雪のメロディー、と言えば
雪の降る街を。
亡くなった親戚のおばちゃんが、生前、
雪の日にラジオから流れたこの曲を聴いた瞬間、恨んできた夫のつらさがはじめてわかり懺悔した
と泣いて話していたのを想い出す。
10年前、東北をひとり旅したとき立ち寄った鶴岡で、この歌のいわれを知った。
アダモの「雪が降る」、も(というより「こそ」というべきなのだろう)名曲だ。
そうだ、「粉雪」という名曲もあった。
かつてカラオケで絶唱した時も、クルマを運転中に流れてきても
なぜか泣けた。この冬もカーラジオから流れて、思わず泣いた。
雪の思い出が、そうさせるのか。
雪の想い出。

たくさんあるんだ、雪の名曲。

ぼくの挙げたのはとてつもなくマイナーな2曲だけれども
ちょっと興味がわいたならぜひ一度、探してでも聴いてみてください。
あなたのおすすめの、いや、あなたのこころの1曲、
知られざる“わたしだけの、雪のメロディー”もどなたか教えてくれませんか。
どなたか…
未分類 | コメント:0 | トラックバック:0 |

アトリエ・ファウニのムーミン人形

アトリエ・ファウニのムーミン人形
なんて古い人形だろう!
ずいぶんと汚れているようだが…(というか、革でできた顔の部分が傷んでシミが出ているのだが…)
なんとも素朴な味わいがある。これはもはや骨董品だ。

先に本屋の話を書いた。
それはこの人形のことを書こうと思って書き始めたのであった。
いつもの本屋でふと見つけたムーミンのムック本。
ムーミンとトーべ・ヤンソンに関しては、目にしたもの聞いたものすべてをいちおうチェックしてしまう私。
ムーミンとの付き合いは古い、とはすでに幾度となく書いたと思う。
だがこの人形が貴重なものであることは今回初めて知った。本屋でこのムック本を見て本当に驚いた。
10月に出たブルーガイド・グラフィック「ムーミンとトーベ・ヤンソン」
スカンジナビアン・レトロの日本語版、とある。
ここにでかでかと、僕の持っているムーミンの人形と同じものが、載っているではないか!!

「もっとも手に入りづらいムーミンフィギュアといえば、1955年にムーミン人形を発表したヘルシンキの小さな工房、アトリエ・ファウニのもの。」
とある。
「トーベは革、木材、染色された布地を素材に使った手作りの人形をたいそう気に入り、両者はライセンス契約を結びます。」
この本には、編集部が入手したという15体が大きな写真で掲載されている。そうか、そうだったのか……!

さっそく本を買い求めて、
ぼくはアニキ(兄)にメールした。
この人形、私が中学1年のとき、兄がフィンランドみやげに買ってきてくれたものなのだ。

テレビで東京ムービーの初代『ムーミン』が始まったのは小学校6年の時。
雑誌『小学6年生』にムーミンが2ページにわたって紹介された号は、今も保存してある。
クリスマスプレゼントには、ムーミンのLPレコードを、両親が買ってくれた。
(これはかなり子ども向けのもので、もう中学生なのになあ…こんな子どもっぽいものを…と恥ずかしくてしょうがなかったことを
よーく憶えている。だがそこには大好きなスナフキンの歌も、のどかなムーミンパパのうた
―♪そーらのうえにはシドがある~ドレミファソラ、シードーと高木均が歌う―
も入っていた。)
(ついでに言うと、『彫刻家の娘』の本も僕は当時から持っていて、このムック本に載っているフィンランドの初版本と、同じ写真の表紙である。)

兄は当時大学生で、スカンオートというフィンランドの自動車会社にアイセックAIESECの交換学生として研修旅行に行ったのだ。
フィンランドに1か月いたと思う。
行くときは新潟から船でウラジオストクへ渡り、ハバロフスクを経由してバイカル湖畔のイルクーツクからシベリア鉄道で何日もかけてモスクワへ入り、そこからヘルシンキへ入った。
研修終了後はヨーロッパを南下し、デンマーク、ドイツ、オーストリア、スイス、フランスと廻って、パリで友人K君と再会し、ふたりで帰国した。
再会、と言えば…友人はパリで研修をしていたが、当時、パリへ入るのにもシベリア経由で行ったのかなと、ちょっと不思議に感じる。モスクワまで一緒に行って、そこで二手に別れたのだったと思う。こんどアニキに会ったら、一度詳しく、聞いてみよう。

それにしても雄大な旅行である。

中1の時は大阪万博の1970年で、ぼくはこのアニキのダイナミックな欧米行きと、万博の洗礼とで、いたく外国に焦がれてしまうことになる。万博は家族で夏休みに泊りがけで、また学校から日帰りでも行き、大判のオールカラーのガイドブック(これもいまだに持っている。)をすみずみまで読んで、世界への夢を、ふくらませた。
先に子どものころからの、海外、特にヨーロッパへのあこがれについて語ったけれど、小6から中1にかけて、これが一気に膨らんだのだった。

その兄がフィンランドへ行くと決まったとき、僕がお土産に頼んだのがムーミンのお土産だった。
一度言っただけだったが、兄はちゃんと本当に買ってきてくれた。
それがこの、写真の人形である。
ムーミンとかスナフキンでなく、それがムーミンママだったので、僕はアニキがそれを僕にくれた時ちょっとだけがっかりしたのを今も憶えているが、そのようすを目ざとく感じた兄は
「(ムーミンのお土産を探すのに)(これを買うのに)苦労したんだぞー」
と言った。アニキはそんなことはきっととっくに忘れているだろう。
だって今回、僕が驚いてメールを打った時、この人形をぼくに買ってきてくれたことすら、忘れていたのだからね。それはあたりまえのことで、もらった方は忘れないものだ。

ムーミンママが手に提げていたハンドバッグは落ちてしまっているが、この水色の人形は、いまもぼくの部屋の仏間の(仏壇は、入っていない。)旅の記念品を納めるガラスケースの片隅に、毎日佇んで、いる。

追記:ケースの中は、僕がこれまでに行ったあらゆる旅の記念の品(いつも小さなものをと、選んでいる。)と、友人知人からいただいた旅行みやげの小物と、かつて輸入民芸品店などで見つけた僕の憧れる外国の品々でびっしりと埋め尽くされている。
2段あり、上は外国の物、下は日本各地の物だ。ムーミンママのハンドバッグも、ちゃんとあったのだから、きっと上段のきっと隅っこあたりに、今も落ちているに違いない。
旅行 | コメント:0 | トラックバック:0 |

秋のオフタイム(ジョージ・ウィンストン AUTUMN を聴きつつ)

今日は雨降りの休日。
妻は仕事に出、娘は名古屋に遊びに出かけた。
娘は、映画を観に行くと言うので目玉焼きとトーストの朝食を食べさせて先ほど駅まで送って行ったところだ。
やれやれ…。
息子は2階にいる気配(まだ寝ているのか)。
晴れていれば町内のドブ掃除、というか側溝清掃日だったので、
午前中の時間が空いて、ほっとして
いまぼくのステレオにジョージ・ウィンストンを乗せた。
たちまち、震えるような空気の振動が、僕の部屋を包み込む。
AUTUMN
というこのレコードは、かつてこのウィンダム・ヒル・レーベルが登場して
自然とか季節とか空気とかを感じさせてくれる心地よい音楽を提供してくれた時代に
評判になったレコードで、
先日この古いステレオを復活させてから、たびたびかけている。
秋をしっくりと感じさせてくれるこのピュアな音。
レコードのそりかキズか汚れなのか小さくチリチリと鳴るノイズも、自然で僕は好きだ。
何といってもこの、部屋の空気を振動させ、その空間にしみ込んでいく感じが伝わってくる、音の微妙なあわ立ちが
ぼくのこころを心底、落ち着かせてくれる、というより心にまで浸みこんで、なにか良い気持ちで満たしてくれる。
(近年、流行りの健康論でいうと、ドーパミンがぼくの頭の中でじんじんと放出されているのかな…)
おっと、でもこの静かな時間は片面の録音時間で切り上げなくては。
今日は午後から地域の活動の打ち合わせがあるし
それまでに今のこの時間に片づけておかねばならぬことがある。

いつもこうしてちょっとした合間の時間にかけた音楽の
なっている間にだけ、そそくさと書くこのブログ。
こんなことではいつまでたっても旅の報告も写真のアップもままならぬではないか…






旅行 | コメント:0 | トラックバック:0 |

法多山のだんごまつりを往く

今日11月3日は遠州・袋井の法多山(はったさん)尊永寺に毎年、全国のおだんごが集結する日である。

もう7,8年前になるだろうか、このまつりのことを知って以来、毎年この時期になると気になっていたのだが、
日祝日も出勤する仕事であった期間と重なり、行く機会を得られなかった。

だんご、と言えばウルサイ私である。
「だんご3兄弟」の流行ったころ、高速道路のサービスエリアで仕事していた私は
フルサービスの「レストラン」部門では利益が出ない中、大いに屋外特設の実演販売で稼がせてもらった。
研究に研究を重ねたオリジナルの実演メニュー(ローカリティ溢れる焼き菓子である)が超人気を博して雑誌取材やら各地からの視察やらの絶えないうれしい状況になり、
これに気をよくした私は次なる実演販売メニューとしてちょっとユニークなおだんごメニューの開発に取りかかったのである。
だがその途中で私は仕事を変わる羽目になる。
そしてそのときの想いはぷつんと切れたまま、今なお気持ちのどこかに宙ぶらりんに残ったままなのだ。
あのだんごのアイデアは今もまだ誰もやっていない…
それはうまくいくものかどうかわからないには違いないのだが、きっと日本人のこころに響くものがあるに違いないと
いまもひとり、思っているのだ。
だからだんごにはウルサイし、その頃調べた全国のだんごにはちょっと詳しいのだ。

今日ようやく初めて見ることを得た袋井のだんごまつりには全国から21のだんごと、
迎え撃つ(と言うかこれを賑やかしく誘致した)法多山の名物「厄除けだんご」が一堂に会し、
ものすごい賑わい・人出となっていた。
法多山だんごまつり
法多山にはサービスエリア勤務時代、私の物好きなメニュー開発熱にすばらしい男気でもって協力していただけたSさん(今も感謝に堪えません!)に誘われ、一度訪ねてきたことがあった。
ここの「厄除けだんご」こそ素晴らしいもので、全国的に見てもこのような古いかたちのおだんごが残っている例は少ない、というかほとんどない。イベントで大繁盛の中、今日久しぶりに味わってきた。
法多山厄除けだんごの販売風景
200円で2本ついてきた。セルフでお茶をいただく。使い捨ての紙皿なのは、今日は致し方ない。さっぱりしたあん団子をおいしくいただき、ほっとくつろぐ。
法多山の厄除けだんご
茶どころらしく、厄除け「茶だんご」もある。特別な日に売られるようで、今日はこれを求める人々で、延々と長蛇の列が、できていた。
会場には21の各地のだんごがずらり並んで出店している。10時半過ぎには着いたのだが、すでにそのいくつかは完売していた。
残るだんごにはそれぞれ人が大勢並んでいて、次また次と、完売の札がかかってゆく。

倉吉・石谷精華堂の「打吹公園だんご」
打吹公園だんご 本店を訪ねて
20年以上前になるが、倉吉出身の方からお土産にいただいて強烈に印象に残った。以来、鳥取砂丘を見に行くときは必ず三朝温泉に泊まり、倉吉に行くぞと決意していた。今年ようやく念願かない、鳥取に着くなり駅売店で発見するとすぐさま買い求めた私であったが、そこは長年の夢。倉吉市内にはるばる本店を訪ねて食べてきた。誠に感無量、である。お店でしつこく写真を撮らせていただいたのは、私です。

東京築地の「茂助だんご」
築地の茂助だんご
去年出張時にわざわざ自分で1泊し、築地を初めて訪ねてこれもようやくにして食べることができた。
どれもおいしかったが、やはり小豆の皮をいい感じで残してあるつぶし餡が、いちばん味わい深い。
茂助だんご


東京柴又・高木屋老舗の「草だんご」
柴又 高木屋老舗の草だんご
なんとこれも今年。出張時に仕事を終えてからこれも初めて柴又まで、食べに行ってきた。

直江津は三野屋の「継続だんご」
三野屋の継続だんご
これはもう10年以上前、サービスエリア時代に食べてきた。ちょうど高速道路が新潟まで大回りせずにつながったときだ。写真は、今も大事にとってある包装紙など。

といった超ホンモノが出ているのにはいたく感心するが、さすがに早々に売り切れた。
松山の「坊ちゃんだんご」はうつぼ屋さんの出店だが、つぼや菓子舗は出さないだろう、
などと思ったりする。いや、うつぼ屋さんので十分おいしい。
こうしたイベント出店は冷凍もので対応せざるを得ないから致し方ないし、
今はそれでも十分おいしいからこれで良いのだ。これでしか
できないのだ。イベントというものは。でっかくやろうと思ったら。
主催者さんのご苦労は自分の経験からもよくわかる。よく頑張ってやっていらっしゃると思う。

法多山に参拝し、御朱印をありがたくいただいて、
そのあと火防の総本山、秋葉様の総本殿「可睡斎」を初めて参拝、御朱印をいただいて、帰った。
一日、暖かく雲一つない晴天に恵まれ、充実した秋の日帰り巡拝小旅行を、楽しんだ。

(後日、写真をいくつかアップしたい。)(←これ、いつもそう思うが。)
↑と書いて何日たったことか。今、苦労して写真を何点かアップすることができた。
だんごは数々食してきたが、まつりに出ていない(出られない)おいしいだんご、ユニークなだんごはまだまだ全国にある。
長年食べに行きたいと思いながら、最近(この年…って何歳??…)になってやっとそうした自由な時間を得ようとすれば得られる年になってきた。これから少しずつ、食べにでかけようと考えている。





旅行 | コメント:0 | トラックバック:0 |

アトリエ・ファウニのムーミン人形 を書く前に  ~Matasitemo~

本屋の話を書いた。
いま自分の書いたものに目を通してみて、本屋の思い出は
結構あるということに気が付いた。

中学の帰り、毎日のように寄り道した、喜多山のふたば文庫。
ごくごく普通の、地域に必ずあった本屋さんだ。
ちょうどそのころいい具合に通学路の中間点にオープンした。
創元推理文庫を毎日少しずつ読んで1冊読み切った。
「吸血鬼カーミラ」とか、短編集が好都合だった。
その頃創刊された、やなせたかしの「詩とメルヘン」や、
やはりその頃始まった分冊百科の先駆け、「アニマルライフ」。
いくつもの雑誌・本を立ち読みした。ときどき、買った。
「どくとるマンボウ航海記」の北 杜生が、
中1当時の僕が文庫本を読むきっかけになったような気がする。
当時すでに大学生であった読書家の兄の本棚から
サン・テグジュペリの「人間の土地」や中公新書などを勝手に借りて読んだ。
テグジュペリではやはり中学生らしく?「星の王子様」のほうをすらすらと暗唱していた。
中1の頃テレビで放送されていた初代「ムーミン」が大好きだった(ことは書いたような気がする。
上の姉がちょうどOLになって、会社帰りにトーベ・ヤンソン全集を毎月1冊ずつ買ってきてくれたことも
すでに触れたような気がする。)から、
暗唱、と言えば何と言ってもムーミンの原作であった。いつも読んでいたからあらかた暗唱できた。
とりわけ好きだったのは「ムーミンパパの思い出」に登場するお化けのセリフであったが、
テレビの「ムーミン」も録音してスノークの広川太一郎の声を得意げに披露していた。
話が飛ぶがロマン・ポランスキーの映画「吸血鬼」の日本語訳せりふも面白かったので記憶していた。
話がムーミンに向いてきたが…
ここではいったん話を本屋に戻そう。

とりわけ暑い夏は、家との中間点にあったふたば文庫は、
店の冷房で汗を乾かし一休みできる有難い休憩場所、
大げさに言うとオアシス、今のテーマに沿って言えばそれこそ
(学校からの帰り道に姿をくらます)「隠れ家」だったのではなかったか。

あるいは僕の金沢時代、ビアガーデンで雇用していた金沢大学の学生アルバイトMが、
(そんなガラでもないくせに)いつも女の子と待ち合わせに使っていたうつのみや書店。
格好つけて4階の美術書売り場を指定していたっけ。静かでいいんだとうそぶくM。
いやいや、金沢時代はうつのみや書店より、何といっても香林坊の福音館書店だ。
2階の喫茶に腰かけると店の正面の横断歩道を眼下に見下ろす好立地。
何で横断歩道が好立地?と人は思うだろう。
全面ガラス張りの2階前面が喫茶スペースで、そこから中央公園・文学館の方がワイドに見渡せた。
真下に目をやれば店の正面の横断歩道。信号待ちの金沢の善男善女が、
それぞれに用事の狭間の一瞬に、ここで立ち止まってただ信号を待つ姿を、
ぽーっと何となくも眺めながら、本を開いてコーヒーを飲むひとときが、
僕は楽しかった。

全面ガラスの喫茶店がぼくは大好きで、金沢では幸町のグッチが特にお気に入りだった。
毎週金曜日であったか、大きなスケッチブックを小脇に抱えてその店に入り、
夕方からのスペイン語クラスのための
予習をした。スケッチブックだったのは、クラスがハードで、
ページをめくっている隙もないほどのコトバ(スペイン語)の洪水であったから、
ひとことも聴き逃すまい、と大きなノートに絵のように何もかもぐちゃぐちゃにメモしまくるためであった。
グッチでの予習は、ちゃんとテキスト(も一応あったので)を読めるように単語などを調べて臨むための貴重な時間なのであった。
ホテルでの勤務を終え、明るいうちに仕事をあがって、さあ今日もヤルゾと
意気軒昂に北鉄バスに乗り込んで、週に一度、幸町へ向かうのだった。
だがクラスは幸町ではなかったかな?
どこだったかな…、社教センター、という所だったような気がするが…。
クラス(スペイン語でクラセという)は、ホセのクラセ、という自主学習講座で、
銀行マンでアルゼンチンタンゴを愛する、いつもにこにこ優しい笑顔の常山さんが、
当時金沢で生活していたコロンビア人の若手彫刻家ホセ・バネガス氏に講師をお願いして
開講していたもので、常時7、8人か、それ以上の人が学んでいたと思う。
ホセは当時まだ日本語を全然しゃべれなかったので、われわれはいつも必死でかれの言葉を聞きとろうとし
理解しようとしこちらの言いたいことを伝えようとした。
ハードなクラセの後がまたお楽しみ、片町・香林坊へみんなで繰り出して、セグンダ・クラセ、つまり第2部、
言ってみれば2次会を、毎度楽しんだ。
あの時のメンバーは皆どうしているだろう。

また本屋の話からそれてしまった。
いや、本屋の話ではないのだった、それは書き出しで、またしても、
Matasitemo, ムーミンの、めずらしい人形の話を書こう書こうとしているのに、
今日もそこへ到達できぬまま、今宵も更けていってしまった――

ぼくは、その珍しいフィンランド製のムーミン人形を、持っているのだ…。





未分類 | コメント:0 | トラックバック:0 |
<<前のページ| ホーム |次のページ>>