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旅の人生88ヶ所めぐり

忙しくても、自分の行きたいところへとにかく行こう。行きたかったところを、一つずつツブして(かなえて)いくのだ。ある地へ行ったことが、その後の人生に影響することも多い。旅に憧れるロマンチストは、そうして自分だけの旅の人生遍路を辿り、完成させていくことで、自分の人生を極大まで充実(即ち満願成就)させたいと願う。ここでは、私のささやかな八十八旅を、自由にクロスさせながら拾い上げていきます。

鄙びの温泉へ秋の旅 ~善光寺参りのご利益~

善光寺では、御朱印がどのお堂のものも用意されているのはまだしも、限定版だカラー版だとやたらたくさん種類があって、それらがいずれも500円とあるのをみると、近頃の御朱印ブームも困ったもんだ…と思う反面、ブームにちゃっかり乗っかって商売根性丸出しの寺社側もどうかと思えたが、寺社側にしてみれば、以前のようにゆったりとは対応しきれない今日では、あらかじめ用意しておかないととても対応しきれないという事情もあるのだろう。
それにしても、季節限定、御詠歌の御朱印だとか、やれ古地図の浮世絵をあしらったカラーの御朱印用紙を5種類も用意し、横につなげると1枚の絵になるとか、業者提案にまんまと乗せられたのではあろうが、こんな状況になっているとは驚いた。有名な寺社仏閣は全国的にこんなことになっているのだろうか??? 
私は御朱印は平成14年、40代半ばから始めてるから、今のブームよりは古い、敬虔な寺社仏閣巡り愛好家なのだ。何としても聖徳太子(今は厩戸皇子か、いや、昔もそうカッコ書きで書いてあった)の法隆寺から始めたくって、1冊目は法隆寺で買い求め、「御朱印帳」の文字も持ち主の私の名前もそこで書いていただいた私なのだ。さらに遡って30歳の頃、宮大工の西岡棟梁のことを書いた『法隆寺を支えた木』を読んで感銘を受けて以来、法隆寺は自分にとって特別な場所だったから、いざ朱印帳を始めようとした時は即、奈良からスタートしたのだ。
と、また横道にそれて戻れない私である。

まずは参拝を終え、本堂を背にして歩き出した時、友人が瀬戸ものの磁器でできた大きな燈籠があるのに気付いた。
今回の小旅行の道連れ二人は瀬戸市のお隣・尾張旭市の出身で、燈籠に気付いた方は高校で郷土研究部の部長さんを勤めていたから、古窯の発掘もしたりして陶磁器には造詣があったからだろう、自然と目に留まったのではないか。
やや?待てよ?、と気になる私。大きな燈籠??もしや…
目をやると、見上げるほどの大きさの染付の大燈籠ではないか。寺社仏閣には昔から燈籠は寄進される定番だったのだろうが、私の頭には、明治期に実業家としても鳴らした瀬戸の陶工、この種の大物づくりが特徴だった加藤杢左エ門の名が頭をよぎった。そうしたら、まさにその名が、大燈籠の下部にはっきりと記されているではないか!!

 愛知県尾張國東春日井軍瀬戸町夜燈寄附製造人 加藤杢左エ門

寄附奉納人、として杢左エ門を筆頭に五人の名前が明記されている。
僕は(どうしても興奮すると私、でなく僕、になってしまう!)俄然、熱くなった。

30代前半、編集の仕事をしていたころ、父の出身地である瀬戸のことを調べたことがあった。名鉄瀬戸線、通称、瀬戸電(せとでん)と地域のかかわりを調べ、名古屋鉄道(名鉄)の社内誌に2回にわたり記事を書いたのだ。
瀬戸市の図書館へも出向き、いろいろな資料を調べる中で、加藤杢左エ門のことを知った。瀬戸に鉄道を引いた男だ。瀬戸が瀬戸物の生産で活気づき全国でも有数のにぎやかな街であったころ(が本当にあった)、杢左エ門は中央線を瀬戸に誘致しようとした。というか中央線の敷設計画を、瀬戸を通るルートにしようと運動した。陶磁器の原料を安定的に調達するため瀬戸に索道(輸送用のリフトである)も作った。運搬を、旧街道の人馬に頼っていた時代に、だ。そのダイナミックな発想と実行力に、調べれば調べるほど取りつかれたことを憶えている。
その杢左エ門が、中央線の誘致に失敗した結果、みずから開設に踏み切った、瀬戸の陶磁器とその材料と人とを運ぶ手段が、わが瀬戸電こと、瀬戸電気鉄道であったのだ(明治38年開業、と記憶しているが、西暦で言うと? ン?1905年、かな?? 1905年と言えば、日露戦争、日本海海戦ではないか!!! 最初は社名も違っていて、瀬戸自動鉄道といった)。
地域と鉄道開業の間には、瀬戸に限らず何らかのストーリーがあって、取材でそのいくつかを実地に訪ねていた当時の私は、そこに決まって熱い人間のドラマがあることを知り、本当に感動したものだ。

開業当初の瀬戸電には、なんとフランス製の蒸気原動車セルポレーが走った。
(蒸気原動車というのは、ふつう蒸気動車と言われるもので、機関車トーマスに出てたトビーがそうではないかと思うのだが、日本で唯一、どこで走っていたものか忘れてしまったが実物が1輌、愛知県犬山の明治村にずーっと保存されていて、リニア・鉄道館ができるとき、そこへ移された。だから今も保存車両を見ることができるが、これは瀬戸のものよりかなり大型の、少々いかつい形の、工藤式という日本製だ。セルポレーは、いかにもおフランス製、というちょっとしゃれた感じの、その分馬力には欠ける車輛だったように思う。)
そんなものが走ったのは、全国広しといえどこの瀬戸だけだ。いかに当時の瀬戸が、世界を向いていたかがわかる。
図書館で見つけた瀬戸の本に、若いころ瀬戸の陶磁器工業組合に勤めていた、今は亡き父の若かりし頃の写真を見つけ、胸が高鳴った。瀬戸の街が当時どんなだったか、そのリアルな姿を、繁栄ぶりを知って、心が熱くなった。父が生前話していた瀬戸の街のにぎやかさがとても信じられなかったのだが、それが本当だったことが初めて分かった。

ごくごく普通の、一般的な秋の温泉旅行を楽しめるだろうとそれなりには期待して出てきた私だったが、このとき予期せぬ感動を得て、大いに充実感に浸りながら善光寺を後にしていた。
何といっても杢左エ門の大燈籠の実物を、たった今、たまたま来ることになった長野の善光寺で偶然にも目の当たりにすることができたのだ。杢左エ門を知ったのはもう30年近く前のこと。何の因縁が、このめぐりあわせをもたらしてくれたのだろう?
…一瞬にして、この旅は私(たち)のオリジナルな、他の誰もがする旅とは違うものになったのだ。(かくして、ここに取り上げる次第となった。)

3人で歩きながら、「瀬戸の街を『ブラタモリ』で取り上げればよいのになあ!」と友人に呟くと、「何言ってんの、もうやったじゃない!」とH君がのたまう。え?!そんなはずはない、僕が『ブラタモリ』を、よりによって瀬戸を見逃すはずがない…と驚いてよく聞けば、あの名古屋・熱田編だという。いや、あの回ではお堀の電車(瀬戸電のかつての姿である)こそ紹介されたが、瀬戸の街を正面からとりあげたものではなかった。茶碗などのいわゆる“生活用陶磁器”を大量生産することで国内市場を席捲した瀬戸だったが、今見たような大物(の陶磁器は、そう簡単に焼けるものではなかった。)をはじめ、美しい製品、作品を、海外へも数多く送り出していたのだ。「瀬戸の陶磁器がなぜ“せともの”といわれ全国に知られる(普及する)ようになったか」をテーマに、『ブラタモリ』で改めて取り上げてほしいものだ。その時には、加藤杢左エ門と瀬戸電が、きっとクローズアップされることだろう…。

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